
中央がTeisukeさん、左端が店長
Teisukeさんは新潟で生まれ、5歳の時に長崎の上空で凄い閃光を見て爆風を経験され被爆者として生きてこられましたが、20歳で一念発起されてブラジルへ渡ることを決意されてブラジルへと旅立たれました。
当時被ばくしたご兄弟は皆若くして亡くなったそうです。
ブラジルでは農園の仕事に従事し、当時合法の農薬を1日中撒いていた薬害で体調を崩されました。その後、日本語学校の教師を務め奥さんと出会い収入の安定できる仕事を得るため中古の家具商をはじめ、奮闘した結果4件の支店を持つまでに成長しました。
原爆の影響は確実に体を蝕んで行き、50歳までは生きられない覚悟でいたそうです。
しかし、当時も不安定なブラジルの政権は、デノミを行いブラジル経済は崩壊し、またも安住の地を求めて現在の場所に移住しました。
幼少期から自然に慣れ親しんでいた彼は、周囲にいるミツバチが気になり養蜂の道を歩むことになり、この時プロポリスを初めて知ったと回想されています。
日か経つにてプロポリスの事がだんだん気になり、ブラジルのあらゆる場所を調べに、時には飛行機で時には車で足繫くあちこち訪れたそうです。
そして、とうとう1980年代半ばに、今までにない芳香と甘渋みのある新種のプロポリスに出会ったのです。ところが、その場所から少し離れると品質が変わりその植物を特定するまでにかなり時間を要したと語っておられます。
また、自分でもプロポリスを飲み始めて、原爆の影響を感じなくなったそうですが、耳に残った難聴は中々克服できなかったようです。
このプロポリスの可能性を感じたTeisukeさんは、量産できるようになってから日本の養蜂会に連絡を取って緑色のプロポリスのお話をしたら飛行機代を払って貰えたので原料を日本に持って行きました。グリーンプロポリスの日本デビュー
ブラジルから持ち込まれたプロポリスはその場で商談が成立し、大口の販売先を確保できたTeisuke養蜂場では、将来を見越して既に10年熟成のプロポリスの生産体制が取られて着々と準備が進めらて行きました。
その頃日本では、健康雑誌ではプロポリスの特集が組まれ、テレビでは夢の食品として報道され爆発的な需要が起こりました。
こうしてブラジルの養蜂家の手も借りて生産が拡大し、ブラジルはプロポリス生産地として国際的な地位を得たのです。これも当時国際的にも力があった日本の市場での商品拡大が大きく働いていたのは違いありません。そのご、プロポリスは韓国や中国、台湾にも伝搬してゆきました。
特に漢方大国の国民の健康意識は強く、北京大学とその研究所がTeisuke養蜂場を訪れてプロポリスを分析し、その結果会社ごと売ってくれてとの申し出があったそうです。お国柄ですね。
その後寺尾さんは中国でのプロポリスの講演依頼を受けて大学や企業で講演するために5度中国中を回ったそうです。実はこの中国の漢方の世界は凄いのです。1000年も生きている丸テーブルサイズの霊芝が3000万円で売られていたり熊の胃が一塊で100万円はざらで、ここへ入り込んだプロポリスの信頼性は相当な事です。
そうして世界はコロナ地獄になり、プロポリス需要が勢いを増しブラジルでも一時期は品薄になったとのことですが、現在は多少安定したとのこと。
現在Teisukeさんはお年もお年、社長の座を息子さんに譲り、現在は会長の身分ですが、根からの職人気質なので「死ぬまで現役」です。
と言われ言葉に私も同感出来ました。
長々お読み頂きありがとうございます。
マイナス10度以下に凍結したプロポリス